私が、社会人として、初めて一人で葬儀に参列したのは、入社二年目の、まだ肌寒い春のことでした。大変お世話になっていた、取引先の部長様の、突然の訃報。私は、悲しみと共に、社会人として、恥ずかしくない振る舞いをしなければ、という、強い緊張感に包まれていました。インターネットで、葬儀のマナーを必死に調べ、クローゼットの奥から、リクルートスーツの時に買った、黒のフォーマルスーツを引っ張り出しました。そして、足元は、同じく、就職活動で履き潰した、一足の黒いパンプス。ヒールの高さは5cmほどで、形もシンプル。これで、大丈夫だろう。そう、安易に考えていたのです。当日、斎場の厳粛な雰囲気に、私の緊張は、最高潮に達していました。受付を済ませ、式場に入り、自分の席に着く。そこまでは、問題ありませんでした。しかし、儀式が始まり、一時間近く、椅子に座り続けた後、焼香のために立ち上がった瞬間、私の足に、激痛が走りました。普段、スニーカーしか履かない私にとって、久しぶりのパンプスは、もはや、拷問器具でした。つま先は圧迫され、かかとは靴擦れで、ジンジンと痛みます。私は、その痛みを、必死で顔に出さないようにしながら、覚えたての、ぎこちない作法で、焼香を済ませました。しかし、本当の試練は、その後に待っていました。儀式が終わり、出棺を見送るために、屋外へ移動したのです。その道のりは、わずか数十メートル。しかし、痛む足を引きずる私にとっては、果てしなく長い道のりに感じられました。霊柩車が見えなくなるまで、参列者が、静かに合掌している間も、私の意識は、足の痛みと、「早く、座りたい」という、不謹慎な思いに、ほとんど支配されていました。故人を偲ぶ、という、最も大切な気持ちが、足元の準備不足という、些細な、しかし、致命的なミスによって、どこかへ、消し飛んでしまっていたのです。あの日の、情けないほどの、足の痛み。そして、故人に、心から向き合えなかった、という、深い後悔。その経験が、私に、マナーとは、単なる形式ではなく、儀式に、心から集中するための「準備」なのだ、ということを、痛いほど、教えてくれました。
私が初めての葬儀でパンプスに泣いた日