初七日から始まり、四十九日まで続く、七日ごとの忌日法要。その中でも、特に重要とされる、三十五日(五七日)の法要ですが、現代の社会においては、この儀式を、あえて「行わない」、あるいは、ごく簡素な形で済ませるという、新しい選択をするご家庭が、増えつつあります。この背景には、宗教観の多様化や、家族形態の変化、そして、経済的な事情など、現代社会が抱える、様々な要因が、複雑に絡み合っています。まず、最も大きな理由として、「宗教への帰属意識の希薄化」が挙げられます。代々お付き合いのある菩提寺がなく、特定の宗派への信仰心が薄いご家庭にとって、閻魔大王の審判といった、仏教的な世界観に基づいた儀式を、厳密に行うことに、意味を見出しにくい、と感じるのは、ある意味で、自然な流れかもしれません。「故人は、そのような宗教的な儀式を、きっと望んでいないだろう」という、故人の遺志を尊重した結果、という側面もあります。次に、「家族形態の変化と、経済的な負担」です。核家族化が進み、子供たちが、親と遠く離れて暮らすのが当たり前となった現代において、葬儀の後、わずか一ヶ月余りで、再び家族全員が、仕事を休んで一堂に会することは、時間的にも、経済的にも、大きな負担となります。僧侶にお渡しするお布施や、会食の費用なども、決して、安価なものではありません。「故人の供養は、もっと自分たちの形で、心を込めて行いたい。形式的な儀式にお金をかけるよりも、その分を、お墓の建立費用や、残された家族の生活に充てたい」。そうした、きわめて現実的で、合理的な判断から、法要を省略する、という選択がなされるのです。では、五七日法要を行わない場合、故人の供養は、どうすれば良いのでしょうか。大切なのは、儀式の有無ではありません。三十五日目という日に、たとえ家族だけであっても、自宅の祭壇の前で、静かに手を合わせ、故人を偲ぶ時間を持つこと。故人が好きだった食事を、皆で囲み、思い出話を語り合うこと。それもまた、形式にとらわれず、心がこもった、尊い「法要」の形なのです。故人を思う気持ちに、決まった形など、ないのですから。