孤独死という現代社会の悲劇に立ち会う際、私たちが最初に行うのは「カレンダーを遡る」という作業です。いつからその人の時間が止まっていたのか、それを特定するための有力な手がかりが、部屋に残されたカレンダーです。めくられなかったカレンダーのページ、特定の日付で止まったままの筆跡。そこには、誰にも知られることなく過ぎ去った時間の空白が、残酷なまでに刻まれています。例えば、ある独居高齢者の部屋では、カレンダーの10日後に「通院」という予定が書かれたまま、その日が来ることはありませんでした。カレンダーの空白の日数を数えることは、その人が誰からも気付かれずにこの世を去り、放置されていた「孤独の長さ」を計測することに他なりません。葬儀の日程を組む際も、孤独死の場合は警察の検視が必要となるため、カレンダーの予定はさらに不透明になります。死後数週間が経過している場合、通常の葬儀を行うことは難しく、速やかな火葬を余儀なくされることもあります。カレンダーに書かれた日常の予定が、死という断絶によって切断される。その光景を見るたびに、私たちは「カレンダーを共有する誰か」がいることの尊さを思い知らされます。孤独死を防ぐための地域の取り組みでは、カレンダーに「〇」を書き込んでもらい、それを外から確認するといった活動もあります。カレンダーは予定を立てるための道具であると同時に、自分の生存を外部に知らせる「信号機」としての役割も持っています。もし、あなたの周囲に一人暮らしの高齢者がいるなら、カレンダーのページが正しくめくられているか、少しだけ気にかけてみてください。葬儀の現場で見る「止まったカレンダー」の悲しみを減らすために、私たちは今、生きている間のカレンダーのやり取りを大切にしなければなりません。誰かのカレンダーの端に自分の名前が書かれていること。それが、私たちが社会の中で生きている証であり、最期の時に誰かに見つけてもらえるための命綱なのです。カレンダーは、単なる紙の束ではなく、人と人を繋ぐ時間の糸なのだと、葬儀という極限の場で改めて教えられるのです。