父の葬儀で、私が最も記憶に残っているのは、悲しみや慌ただしさではなく、火葬が終わった後の精進落としの席で食べた、温かいお吸い物の味でした。病院での長い看病生活、そして突然の別れから始まった通夜と告別式の数日間、私たちの心身は極限まで疲弊していました。食事を摂るという行為すら忘れてしまうほど、次々と押し寄せる手続きと挨拶の連続。そんな中で迎えた精進落としの席は、ようやく父を送り出したという安堵感とともに、張り詰めていた糸が切れる瞬間でもありました。親族一同が集まり、静かな和室で運ばれてきた料理は、どれも父が好きだった地元の食材が使われていました。一口運ぶごとに、父がよく「美味い、美味い」と言いながら食べていた食卓の風景が脳裏に浮かび、涙が止まらなくなりました。しかし、それは悲しいだけの涙ではありませんでした。隣に座っていた叔父が「兄貴は本当に食いしん坊だったから、この豪華な膳を見て喜んでいるだろうな」と笑いながら話しかけてくれたことで、会場の空気が一気に和らぎ、あちこちから父の武勇伝や失敗談が聞こえ始めました。食事が、凍てついていた私たちの心を溶かし、会話のきっかけを作ってくれたのです。もしあの場に食事がなかったら、私たちはただ黙々と、重苦しい沈黙の中で時間を過ごしていたかもしれません。葬儀の食事は、亡くなった人のためだけでなく、今を生きる私たちが再び立ち上がるために必要なものなのだと、身をもって感じました。また、通夜振る舞いでは、父の現役時代の同僚の方々が懐かしそうにビールを酌み交わしている姿を見て、父がいかに多くの人々に慕われていたかを知ることができました。その時に振る舞われたお寿司も、父が贔屓にしていたお店にお願いしたものでした。自分たちで献立を考える時間は大変でしたが、葬儀社の担当者と相談しながら「父らしいメニュー」を選んだことは、私たち家族にとっての最後の共同作業でもありました。食事を通して父の人生を辿り、その一部を自分たちの体に取り込むような、そんな不思議な一体感を感じる時間でした。葬儀が終わってから数年が経ちますが、法事のたびに親戚が集まって食事を囲むと、必ずあの日の精進落としの味が話題に上ります。美味しいものを食べながら故人を語ることこそが、最高の供養になるのだという確信があります。葬儀の食事は、単なるマナーや形式ではなく、愛する人を失った悲しみを乗り越えるための、優しく温かな「心の薬」なのだと思います。
親族として経験した葬儀料理の思い出