私の父が急逝したあの日の朝、最初に手にしたのはスマートフォンのカレンダーアプリでした。昨夜まで書き込まれていた仕事の打ち合わせや友人との会食、ジムの予定といった日常の断片が、父の死という圧倒的な現実によって一瞬で無意味な文字列へと変わりました。葬儀の日程を決める作業は、その真っ白になったカレンダーに、これまでに経験したことのない重みを持つ予定を書き込んでいく、非常に孤独で切ない作業です。葬儀社の担当者から渡された紙のカレンダーには、大きく「友引」と書かれた赤い文字が躍っていました。担当者は「明後日は友引ですので、火葬場がお休みです。1日ずらして3日後にお通夜、4日後に告別式という日程はいかがでしょうか」と淡々と提案してきました。私はその時初めて、カレンダーの小さな文字が個人の人生の幕引きを左右する力を持っていることを痛感しました。友引を避けるという慣習は、科学的な根拠はないと頭では理解していても、いざ自分の父のこととなると「もし友人を連れて行ってしまったら」という根源的な恐怖が頭をよぎり、そのルールに従わざるを得ませんでした。カレンダーの数字を見つめながら、遠方に住む親戚が何時に到着できるか、新幹線のダイヤと照らし合わせ、宿泊先の空き状況を確認する。そんな事務的な作業を繰り返すうちに、父が亡くなったという実感が少しずつ、しかし確実に胸に迫ってきました。カレンダーの1マス1マスが、父との別れに向けたカウントダウンのように感じられ、予定を書き込む手が震えました。仕事関係の人たちに欠席の連絡を入れ、カレンダーから消去していく作業は、父の人生という大きな物語を終わらせるための整理整頓のようでもありました。葬儀の日取りが決まり、カレンダーに「告別式」と記した瞬間、日常とは完全に切り離された特別な時間が始まりました。カレンダーは本来、未来を計画するための道具ですが、葬儀の期間においては、過去を振り返り、今この瞬間を噛み締めるための錨のような役割を果たしてくれました。あの日、カレンダーの空白を埋めていった苦しさと、それを終えた後の奇妙な静寂は、私にとっての通過儀礼だったのかもしれません。時間は誰に対しても平等に流れますが、葬儀の数日間だけは、カレンダーの枠を超えた永遠のような密度を持っていたように思います。
突然の訃報とカレンダーの空白を埋める葛藤の記録